庭に仏の玉座あり
対象物を、それが有機生命体であろうと無機物であろうと擬人化して捉えることから収集や趣味の世界が始まります。ぼくの場合だと犬も猫も水槽の熱帯魚も、気がついたら相手を人格として捉えて話しかけたりハグしたり、それによってオキシトシンの分泌を自覚することもしばしばです。もちろん庭の植物もそうで、バラの姿と香りに理想の女性を感じ、芝生には無意識に自分自身を投影しています。森を歩きながら眺める木々や草原は普通に植物に見えるわけですけど、その中に雑草の花、今の時期ならツユクサ、アカマンマ、オオイヌノフグリなどを見つけた瞬間に擬人化モードとなって、しゃがんでファインダー越しに言葉を交わしながらピントを合わせ、呼吸を整えシャッターを押す。雑草って可愛らしいですよね、園芸品種とは違う、か弱さと強さが同居している姿に魅了されます。そんな雑草族の中で最も好きなのがこれ、ホトケノザ。葉っぱの形状が座席(蓮華座)のようで、そこに鎮座する花が仏様の姿に見えるという、これこそ昔の人の擬人化による命名と言えますから、古来から人と親しい存在だったのでしょう。
この花、蜜が美味しいんですよ。サルビアなんかと同じで花を引き抜くと根元に蜜が溜まっています。このように唇を尖らせたような形状の花は、乱暴者の花アブからメシベとオシベを護りつつ、小さな虫や繊細に花に潜り込んでくれる小型のハチによって受粉する、つまりドレスコードのように来客を制限する方針であることを示しています。受粉機関がか細い可憐な花は、優しいお相手が好み、というわけです。
いつも新年早々に野山に出現する仏様が、今年はわが家の庭に来てくれそうです。雑草取りの時に芝生の奥に一群を残しておきました。いかな姿を見せてくれるか楽しみ楽しみ。
雑草は一般的に、肥料分が少なく水はけの悪い枯れ地を好みます。ところがホトケノザは、柔らかで適度に肥沃なふかふかとした土地を好む。だから校庭や砂利敷きの駐車場には見当たらず、花壇や畑や、人が触れた土を好んで生息しているのです。その性質によって人の暮らしと共生してきたわけで、可愛らしい花の姿もまた、昆虫だけでなく、地主である人間に対する生存戦略なのかもしれません。
ちなみに春の七草に出てくるホトケノザはこれとは違う種類ですので、新春のお粥に入れても美味しくないそうな。ま、毒ではないのでかまいませんが。
ホトケノザ、女優で言うなら石田ゆり子っぽい。あるいは木村多江。仏様をそんな風に見立てるのは罰当たりかもしれませんけど、どう見ても修行僧ゴータマ・シッダールタではなく女性、女神に見える気がして。仏教を遡って、ヒンドゥーやバラモン教における弁天様(弁財天/音楽と学問の女神)のイメージ。しかしその強かさを考えると、本性は恐ろしき鬼子母神なのかも。石田ゆり子も木村多江にもそんな感じが漂っていますよね。もちろん、秘められた強烈な母性というか女性特有のインテリジェンスと申しましょうか、そこが魅力なのですが。
はっと我に返れば、路傍の草から思考はガンジス川の源流へ、仏教発祥の地へと時空を超えて飛んでゆく。明日から始まる2022年もこんな風に、庭で具にも付かない妄想世界に遊べる余裕を持って、造園界の異端児、つまりは雑草であるぼくですから、雑草は雑草らしく、雑草ならでは庭を思い描きながら、いち日いち日丁寧に過ごそうと思う大晦日。さてさてさすがに今日の仕事は半日で切り上げて、これから孫とカニパーティー。カニカニ〜!という歓声が聞こえるようです。
それでは皆様、良いお年をお迎えください。鬼が笑うといけませんから新年の構想発表は控えつつ、やりたいことが山積みなので、早々からトップスピードでスタートします。よろしくお付き合いのほどを。
店の前にある園芸売り場の賑わいから、はっきりと人々の心の復興が成されたことを感じつつ、この間に力尽きた命のひとつひとつが抱いていたであろう悲しさと悔しさに想いを馳せ、冥福を祈り、生き残った者のゴージャスなる特権を無駄にせぬためにも、笑顔いっぱいでの年越しをイメージして、では、これにてドロンいたします。