ネイチャーフォトの世界では、「里山は人が管理しているのだから、それを自然と称するのはいかがなものか。自然とは人の手が入っていない雄大にして天然なる環境のことである」という主張があります。ぼくは全くそうは思わないわけで、なぜなら野生動物もまた身の回りの自然を管理して暮らしているのですから。ゴリラにしろウサギにしろ、手付かずの自然の中で生息しているように見えて、実は動き回りやすいように伐採をして獣道を切り拓き、斜面を掘って住処にし、折った枝をかき集めてベッドをつくり(ゴリラは毎日新しいベッドで寝ているそうな)、四季折々に木の実や好みの葉っぱを収穫して自然を傷つけ切り刻みながら、その営みが健やかなる生態系を維持するプレイヤーとして役割を果たしている。
庭は自然か不自然か
タヌキ
手付かずの自然という言い方もちょっと変で、どんな自然もそこに生息している生物、昆虫、爬虫類、哺乳類が手をつけることで成り立っているわけですから。つまりロジックとしては、ぼくら人間が自分たちもまた野生動物なんだと思えば里山は大自然、ぼくらだけが自然の外で暮らす特別な猿なんだと思えば自然は簡単には辿り着けない山奥などの未踏の地にしか存在しないことになってしまうわけです。となれば人は宿命的に不自然さにニッチを見出した生物となるわけで、いやはやダメですよ、そんなの。しかしけっこう多いですよね、不自然に食べ、不自然な睡眠をとり、不自然な関係を続け、不自然に笑っている人。いけませんいけません、せっかくの人生をウロボロス(自分の尻尾に喰らい付いて輪っかになっている竜・外界を遮断した自己完結)のままで費やすことなど。
シジュウカラ
生物の歴史上、四苦八苦の努力とアマテラスの気まぐれコンセプトによりもたらされた幸運によって生き残った最後の人類、ホモ・サピエンスがいましばらく生存するために、自然を感じ取る感覚というか概念というか、自然側立っていることが必須だと思うんですけどねえ。
ハナバチ
ぼくは「庭は大自然である」と言い切ります。庭で自然を満喫する時、人は野生動物に立ち返っているわけで、そういう時間を持つことが心身のバランスを良好に維持するために絶対的に必要。なぜならぼくらは絶対的に自然の一部であることから逃れられないわけで、できないでしょ、自然と無関係で健康に暮らす事なんて、そんなこと。だから日々積極的に庭に出て、そこにある大自然を浴びてくださいませ。
タイワンリス
えっ、庭が大自然だなんてのはちょっと無理がある?いやいやそんなことないんですって。なぜなら見上げる空はまごう方なく宇宙だし、吹く風は太古より地球の隅々までを何周もしてきた空気の流れだし、植物が生え、昆虫が蠢き、足元の土には何億もの微生物が生息しているし。キリマンジャロの麓に行っても、アマゾンの奥地へ行っても、この条件は同じなのですから。
気配で見上げたら渡り鳥
猿人が人になり、住処は洞穴から縦穴式、高床式、石造り、鉄鋼、コンクリート、新建材と変化して、果たして幸福感は大きくなったのか、などと思うことがあります。もしかしたら自然に怯えたり感謝したりしながら家族で身を寄せ合って暮らしていた猿人たちの方が、はるかに大きな幸福感に包まれていたのではないか、などと。そう思うと、住まいが辿ってきた変化の中でなぜ庭(建物の外にある生活空間)という場所が生まれ、消えることなく受け継がれてきたのか。考えたらとても不思議なことであり、同時に、ガッテン!ガッテン!ガッテン!とても合点が行くのです。