イーハトーブで事件勃発
ある晴れた日に、孫たちを連れて新潟へ。
コロナもあって、実に4年ぶりの故郷魚沼です。稲刈り間近の芳醇な空気は、まるで水中から飛び出して呼吸をした時のようで、体の隅々まで行き渡り、細胞の一個一個、その中で蠢くミトコンドリアまでが歓喜している感じを味わいました。高速を使い、たった4時間ほどでこうして蘇生できるのに、なぜかこの4年間は帰りたいような帰りたくないような。なんだったんでしょうかねえあの気分は。世の中も、そして自分も大変な時期でしたから、ちゃんと横浜で踏ん張っていなきゃなるまい、などと妙に力んで故郷に背を向けていたのかもしれません。
さあてと、とりあえず飯だ。孫たちはラーメンを食べたいとのことで、地元の名店『ちんちん亭』へ。すると、何としたことか、お休みでした。どうすっかなあ・・・同じ麺類だし『薬師の蕎麦』だなということに。
うまい!孫たちは名物のへぎ蕎麦が衝撃的に気に入ったようで、大人に負けぬ量を食べて大満足。事件は、店のおばちゃんに「うんまかった、ごっつぉさ〜ん」とみんなで店を出た時に起こりました。
古民家そのままの昭和レトロな店の玄関先で、足元を小さなトカゲがスススッと駆け抜けたのです。その一瞬を目撃した美空がギャー!と叫んで大泣き。ぼくの足にしがみ付いてギャン泣きを続けています。大人たちはそれがおかしくておかしくて、大笑いしながら「大丈夫だよ、もういなくなったから平気だよ」となだめようやく泣き止み、まだ少し怖いような、あまりに大泣きしたから照れくさいような、そんな顔。駐車場に向かって数歩進んだら今度はバッタが出現。昆虫なら平気だろうと捕まえて見せたらまたもやギャー!ベソをかき出します。
困った。普段、虫が嫌いだから庭を楽しめないという、ぼくからしたら大丈夫ですか?と少々心配になる、しかしマイノリティーというには割合が多すぎる婦人方を、どうやって悦楽の庭へと誘導しようかという課題を抱え、あの手この手を駆使しているものですから。よりにもよって自分の孫が虫嫌いとは・・・。娘にそれを話したところ、幼稚園で男の子たちと遊んでいるカブトムシやダンゴムシは全然平気とのことだったので一安心。そうか、トカゲを生まれて初めて見たからショックだったんだなあと理解した次第です。
トカゲ、ヘビ、クモ、ゲジゲジの類い、確かに人生の初対面ではエイリアンみたいで気味が悪い姿ですよね。生物好きなぼくでも一瞬たじろぎます。何なんでしょうね、あの嫌な感じ。昆虫では、蝶は美しいのに蛾は気持ち悪い。あと例のあれ、ゴキブリ。イナゴは佃煮にすればご馳走に感じるのに、似たような種であるゴキブリは、どんなに調理しても食欲はわかないと思われます。動物だとハイエナがそうですよね。体毛の生え方や陰気な顔、アンバランスに細い足、何だか卑しい動物に思えてしまって。きっとそれが彼らの、生存に関わる重大な特性なのです。人間社会同様、嫌われ者として繁栄する、そんなニッチもある。しかも多くの場合、それらは人類よりもはるかに逞しく、清く正しく生態系の一翼を担っているのです。
余談ながら、エデンの園で、ヤハウェから決して食べてはいけないと言われていた知恵の実を、イブに食べるよう促したのはヘビでした。よってアダムとイブは知恵を身につけ、そこから人類の幸福と苦悩が始まったのです。故にイエスは「蛇のように賢くあれ」と語り、ヘビは知恵の象徴として多くの宗教画に描かれています。トカゲも聖書に出てきます。尻尾切りの様子から「弱者を切り捨てる者はトカゲのような存在である」と説かれており、慈愛無き行いの戒めとして扱われています。このように、見た目に恐ろしい爬虫類は、人に自然の畏怖を教え、ついには神秘性から神話や信仰の重要なアイコンとして扱われてきました。日本でもヘビは縁起が良いと言われ、抜け殻を財布に入れたり、額装をして居間の壁にかけたり。つまり自然の姿から受けるショックに意味を探り、恐怖も込みで崇拝する、これが八百万に神の姿を見る、自然豊かな島に暮らす民の、心の豊かさなのである。そう思えば、ただ毛嫌いするのは人として不自然な思考かもしれません。自然と足並みを揃えないと人は不自然になる。不自然な人が引き起こす不幸な出来事は連日報道されている通りですから、どうかくれぐれも、くれぐれも。
美空の思いがけないギャン泣きは、きっとヒトの幼児として、生物的に真っ当なことだったのです。神様が任命した嫌われ者に対して、神様の思惑通りに反応したのだと、そう思うと愛おしく、いいぞいいぞ、そのまま素直に成長するのだよ、と抱きしめたくなります。普段接している虫嫌いのご婦人方を抱きしめたいと思ったことはないので、それとこれとは別のこと。美空がこのままの感性ですくすく育てば、昆虫大好き、生物大好き、だから人も大好きな、庭を楽しみまくるお嬢様になることでしょう。
横浜へ帰る道すがら、湯沢あたりで美空たちに魚釣りを体験させようと目論んでいたものの、ショックな出来事の直後では、竿に伝わってくるあの命の振動と、吊り上げた魚をその場で串に刺して焼いて食うということがマイナスに作用してはいけないと判断し、次回のお楽しみにとっておくことにしました。自分も、そして息子もそうであったように、魚釣り初体験を人生観に影響するほどの感動にしてあげたい。なあに、急ぐことはない。彼女らの素晴らしき人生は、まだ始まったばかりなのだから。ジイジくんがそのうちきっちりと、山、川、海、自然と遊ぶ歓びを伝授するからね。
今回の帰郷の目的は父の葬式。思うことは尽きず、感情は津波の濁流の如くでした。ただ、葬儀の一連が済み横浜へと向かう車中、脳内にはピュアな父への感謝と称賛か満ちていました。見事な人生、見事な終わり方。人はあのように生きて、あのように終わることが理想なのだと。そして自分も家族や親戚やお客さんやご近所さんに、そんな気持ちを残して去って行けるように、その日まで全力で、その日まで真っ当に、生きねばならんのだと。ついに乗り越えることができなかったデカい壁、岩渕又一よ、心から、心から、ありがとうございました。
静寂、稲穂、朝露、流れる雲、幼い日の記憶と寸分違わぬ風景。田舎ってのは、やっぱり根っこが元気になります。そして田舎の葬式っていいもんです。いつもそう思います。魚沼から見たらきらびやかな都会である横浜には、越し方のどこかで思考や感覚に田舎を失ってしまった人たちが大勢いて喘いでいる。虫がきらい、植物は苦手、土に触りたくない、太陽光は避けたい、何でカーテンを開けて暮らさなきゃいけないの?と、そういった、来る日も来る日も不安と不満で頭をパンパンにして暮らしている人たちに、越後三山の麓を思わせるような庭があればとても生きやすくなるのになあ、などと繰り返し繰り返し思っています。