昔々のそのまた昔
昔々のそのまた昔、4万年前のお話です。かつては十数種類いた人類の内、最後に残った二類はネアンデルタール人とホモ・サピエンスでした。骨格や遺跡から、どうやらネアンデルタール人の方が、ホモ族よりも遥かに優れた身体能力と知能を持っていたらしいと言われています。しかし強い彼らが滅び、弱っちい我々ホモ族が生き延びました。
いきなり人類史の話が浮かんだのは、ウクライナの民間人が耐えている悲しみや痛みを思う時、いつまで経っても身勝手に暴力を振るうプーチン側が、ネアンデルタール人みたいだなあと思ったが故。滅びますよ、どう考えたって。滅ばなきゃ歴史の筋道が立たない。そして滅ぶ時には指導者だけでなく、かわいそうだけど、多くのロシア人が相応の苦しみを体験することになるでしょう。かつての日本がそうだった。時代的な流れからの必然はあったにしろ、アジア諸国にさんざんひどいことを繰り返し、いい気になって、ついに勝てるはずもないアメリカに食ってかかり、とどのつまりは主要都市が空爆で破壊され、原爆ふたつ落とされて300万人の命が失われたんですから。それ以前には、ぼくらの親の親、その親の親世代から日本はロシアと戦争をしてきました。つまりは、ぼくらはロシアとウクライナと、双方の立場にいたことがある民族なのです。
弱い者には苦労がつきまとうわけで、行けども行けどもまとわりつく不幸と悲しみを、弱者は寡黙に忍耐で受け入れるしかない。親がサーベルタイガーにやられてしまったのか、あるいは子供を失ってしまったのか、洞窟の奥で体育座りをし、肩より低く首を垂れてしくしく泣いているヒトがいます。幾晩も幾晩も、他に何もできない鉛のような時間。泣いて泣いて泣いて、彼はようやくその忌まわしき運命を受け入れて、ついに「それでも、それでも生きにゃならんだろ」と呟いた時にはすでに日が昇っていました。暗い洞窟に、教会のステンドグラスみたいに差し込む光を感じ、もそもそ洞窟から這い出す。するとそこにはたくさんの花が風にそよいでいる。コスモスの群生。花はいつも希望を与えてくれるものです。彼はその花たちに促されて草原へと歩き始めます。狩りに行くのか、はたまた意を決して、新天地を求めての旅立ちなのかもしれません。そんなシーンが何万回も、何億回もあって、歩いて歩いて歩いた先にぼくらがいるのです。
人類だけでなく、進化の過程では弱い者が生き残ります。それは鉄則のようなもの。弱いから移動をし、弱いから知恵が付き、弱いから自分を変化させて生き残る。ダーウィン曰くの「強い者が生き残ったのではなく、賢い者が生き残るのでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である」を補足するなら、「弱いから、生きてゆくためには変化せざるを得ない。その『せざるを得ない』ところまで行けば、必ず進化という変化が起こるのだ」。
進化を遂げた者には、奇跡に次ぐ奇跡が用意されています。これも鉄則、自然界の慣しなのです。だからウクライナの人たちよ、逃げるにしろ、戦うにしろ、とにかく生き残ることを考えてほしい。ぼくには何もできないけど、こんな呟きが届くはずもないけど、どうか家族を大切に。国のためでも自分のためでもなく、家族のために生きてほしいのです。
ネアンデルタール人は、想像ではありますが、強者だったがゆえに家族意識が希薄だったのでしょう。だから危機に際して家族を守ろうという思いから生まれる知恵、撤退、縮小、忍耐、工夫、協力、そういう進化の種が芽吹かなかったのだと思います。なぜか、なぜそう思うのか。プーチンも、ヒットラーも、北のミサイルマンも、幸福な家庭を築けていないという共通点がありますから。
例えば茎が細くて弱いコスモスは、単独ではなく群生することで倒れない、という進化を遂げた植物。寄り添うというアイデアが今の繁栄につながりました。ヒトも同じく、寄り添い、支え合い、励まし合いながらじゃないとた立っていられない、弱っちいサルの亜種でしかない。2001年宇宙の旅の冒頭シーンから、支え合うという観点ではほとんど進化していない、これがホモ族の最大の弱点です。庭ですよ、庭。そして家と庭で家庭。家族で庭を楽しむサルは生き残れると、ぼくは本気で思っているのです。
災害に遭っても、戦争が起こっても、家族単位で強固な幸福を築けている人は何とかなります。庭を楽しむ家族が多数派になれば、災害は避けられないにしても、戦争の回避はごく普通にクリアできるはず。笑顔が溢れる庭があって家庭円満なら、政治がどうでも、国がどうなろうと、ミサイルが飛んできたとしても、戦う意味など1ミリも浮かんでこないんですから。繰り返します、庭ですよ庭。庭くらいさっさと理想の場所に仕立て上げて、今日を楽しむこと。音楽とお酒を用意して、庭を浴びて、『種の起源』でも読んで、最後の人類としての素敵な進化を目指しましょう。
何度でも繰り返します。庭ですよ、庭。いい庭があれば大丈夫。絶対に大丈夫。これ以上の絶対は存在しない。なぜならぼくらの弱点を補う要素は、すべて庭に用意されているのですから。