風の歌を聴け 名残り
10月も終わろうとしているのに、頭はまだ8月を名残っているのです。少年時代のように大汗かいて、スイカを食べて、麦茶をがぶ飲みして、夢中で遊ぶように仕事をし、実に夏らしい夏を過ごしました。
この夏、覚醒したように成長を遂げたドラセナの葉っぱ。
季節と並走し未来を見つめよ、そう自分に言い続けて幾星霜。これは仕事柄、依頼を受けた場所に庭が出現する数ヶ月先へとイマジネーションの幅を広げて、その真っ新なカンヴァスに理想の庭を思い描くことを繰り返す人生なものですから、日常的にほとんど振り返るということがありません。だから基本姿勢はやや前のめりで、視線は次の季節に向いている。たまに振り返ってみても、そこにはしばしば悔やみや恥ずかしさや、あまりいいことが見えてこないし、それよりも手帳に溜まってゆく予定がプレッシャーとなって、慢性的に未来方向に付きものの不安を抱えている状態というのが現実。だから自分に、呪文のように言い続けてきた「季節と並走し未来を見つめよ」は、決して、いわゆるポジティブなことではないことを自覚しています。一種の職業病と言えるでしょう。
初夏に根切りと植え替えをし、丁寧に水やりを繰り返しました。
するとご覧の通り。
途中から葉の長さが倍ほどになっています。
ただし、ぼく以外の方にはとても大事な考え方なので、試しにこの呪文を唱えてみてください。季節と並走し未来を見つめよ。夏には夏を、秋には秋を存分に味わうことができたら、人は欲張りですから次の季節も素晴らしい日々になるように願います。すると自然に花咲く庭と幸福な近未来をイメージするようになるのです。イメージできたらできたも同然、これも我が呪文。何事においても想像力が先行し創造が起こる。
空振りだった台風の日、無風のしとしと雨の午後に
雨宿りをしているカマキリを発見。
誰だって幸せな人生を送りたいと思っているのに、側から見ると真逆な言動ばかりを繰り返している人の何と多いことか。ダメダメ、そういう人はわざわざ悲惨な未来ばかりを思い描いているわけで、暮らしのベクトルは当然悲惨に向かってしまいます。だらか絶対に幸せにはならない。一生懸命に不幸を成就する努力を続けているわけですから。
こいつがほとんど動かずに、翌日も、その翌日も居座っている。
交尾を済ませて、メスに食われないよう逃げてきたのかもしれない。
寿命を悟って静かな最後を送ろうとしているのかも、
などと哀れを含んだ心配をし見守ること5日間。
空は秋晴れ。
さすがに森へでも離してやろうかと手を伸ばしました。
するとあに図らんや、とてつもないパワーで飛び立ち、
何十メートルも先まで、一瞬で。
これは他人事じゃなく、田舎の母親もある時期、介護疲れだったのか愚痴しか言わないことがあり、電話のたびに、内心「こりゃまずいよなあ」と思いつつ、会話としては「そうだね、そうだよね」を繰り返すしかなし。女房もそうです。発する言葉の全てが愚痴と弱音で、ぼくの顔を見るなりあらゆることのダメ出しを繰り返す。幸いにしてふたりとも、そのダメダメ状態から自力で脱出してくれて、今は逆に脳天気になり、日々を楽しみで埋め尽くすように過ごしています。だから思うんですね、あれは女性特有の不安神経症のようなものなのかもしれないなあと。そしてある時、トンネルから抜けたようにポジポジに変身する。こちとらたまったもんじゃないわけですが、一時的な症状だと思えば我慢もできます。我慢、我慢。穏やかに、じっと我慢してくださいね、男たちよ。
あれこれと心配していた自分がおかしくて、
晴れ晴れと見上げる秋の空。
今を味わうこと。今日いち日をワクワクとウキウキで埋め尽くすこと。例えそうならなかった日でも、只今現在の味わい、リアルな感覚が全て。苦かろうと辛かろうと、暑かろうと寒かろうと、生きていればこその出来事なり。「今日も頑張った、よくやったよオレ」と、これも我が呪文なり。京都大徳寺大仙院の住職が言っていました「昨日もなければ明日もない。あるのは今の自分だけ」。尾関宗園、中坊の頃に夢中になった、大好きなお坊さんです。
10月も終わろうとしているのに、頭はまだ8月を名残っている。少年時代のように大汗かいて、スイカを食べて、麦茶をがぶ飲みして、夢中で遊ぶように仕事をし、実に夏らしい夏でした。この素敵な名残りがあるから、秋もそうありたいと、今日を味わい尽くしたいと思うことができるのだ、という結論で。ああ、いい夏だったな〜。ああ、今日もよく頑張ったなあ〜オレ。