貧しう住んで これだけの花を咲かせている
故郷の法事を終え、実家の裏手を散歩していた時に不意に浮かんだ山頭火。貧しいわけではなく、慎ましやかに暮らしている田舎の人々は、畑の隅や軒先に、これでもかと花を咲かせているのです。今回は親父の四十九日でした。葬儀と同じくお経から納骨まで、親族一同が淡々と、和やかに事が進んでホッとしたような。悲しみは不可解なほど少なめで。
このように花をいっぱい咲かせているご近所さんたちにも、いろいろとあるわけです。都会と違ってここ数十年間は慢性的に不景気だし、冬は雪との闘いだし、それぞれの家族にそれぞれの悩みや苦労や不幸なことが、巡る季節のようにやってくる。しかし誰も、誰一人もそれを苦にしている様子はない。季節と同じだから、すぐに、必ず、次の季節がやってくることを、大人から子供まで知っているからなのでしょう。
おりしも越後三山の頂上が白くなり、手前の低い山々は 山頂から中腹が紅葉真っ盛りで、もうすぐ里に降りてくる頃合い。大概このタイミングで初雪となり、色鮮やかな風景がひと降りで灰色になってしまうのです。冬が来る。人々は野沢菜洗いと大根抜きと雪囲いを急ぎます。
正月くらいから始まる除雪作業はかなりの重労働で、都会の人なら1日で音を上げます。しかし子供の頃から繰り返してきた老人にはごく普通の、飯を食うくらい日常的なことであり、ラジオ体操程度にしか感じないちょうどいい運動になっている。それでも冬型の気圧配置が一週間も続くと、町中の人が疲労困憊で顔色が悪くなる。でも誰もそれを嘆く者はいないわけでして、いたとしたら病人か怠け者という噂が広がるだけだから、グッと我慢しているのかもしれません。雪国人の我慢強さは案外そんな理由であると思われます。親が口癖のように言う世間体とか、子供の頃は大っ嫌いだったけど、それは田舎暮らしに必要なタガなのかもしれませんねえ。
雪は魚沼盆地一帯に、平等に降り積もります。平等だから、若い衆は弱い立場の人を普通に助けます。自分もそのうち弱者になることを知っているし、だからお互い様なのです。そして共存のために、隣近所は家族的につながります。日に何度か、ご近所さんや近郷近在で暮らしている知り合いが家の中にいるのが当たり前で、収穫した野菜をやりとりし、魚野川の鮎や、時には山の獣を仕留めて解体して配り回る。熊などは超が着くご馳走で、肉だけでなく、熊の胃の苦味は、今でも思い出すだけで胸焼けが収まるほどの胃薬効果がありました。
貧しう住んで、これだけの花を咲かせている。やはりそう、貧しいのではなく、お互い様の暮らしは永久に豊かなことなのです。豊かさとは財力ではない。財産とは心の中と、家族と地域の人たちとの関わりの中にある。雪国育ちのぼくはそのことを実感できるのですが、都会育ちの方々には想像もできないことなのかもしれません。だからできるだけご近所と関わらないように、互いに息をひそめるように暮らし、時たまいる『関わる者』は、やや病んだトラブルメイカーだったりするものだから、いやはや。
トラブルメイカーの家は、仕事柄、すぐに判別できます。チラシお断り、犬のフンに対する警告文、ひどくなると「北朝鮮が攻めてくる」と汚く殴り書きした紙が何枚も。おっといけねえ、長年庭にまつわるご近所トラブルの相談を受けながら、とても気になる風景なものでついつい激しい言い方になってしまいました。そこまでいかなくても、共通しているのは玄関先や庭が殺伐としているということ。気がついている人も多かろうと思います。訪問販売系の人たちは必ずそこを観察して、善良なる販売員は敬して遠ざかり、悪質な者はいいカモを見つけたとピンポンを押すのです。先日もそんな事件が報道されまして、せめて玄関先だけでも健全に花咲かせていたら・・・などと思いました。
都会は何故ここまで貧しくなってしまったのでしょう。何かささやかな間違いを積み重ねるうちに、庭を楽しむことを忘れ、それどころかいかにして苦労を減らすかという一点からイマジネーションが広がらなという、重大な間違いにはまり込んでしまっているように思えて、早くそこからぬけださなきゃまずいでしょ、と思えて仕方がないのですが。
貧しう住んで、これだけの花を咲かせている。花って不思議ですねえ。食べられるわけでもないし、小学とはいえお金もかかるし、世話に費やす時間も必要だし。誰が誉めてくれるわけでおないのにせっせと咲かせている。庭の専門家でありながら上手に解析できないこの花の効用は、実は途方もないく大切な、重要な、幸福に暮らすためのお作法なのかもしれません。たぶん、間違いなく、花の数と幸せは比例するのですよ。
花ですよ花、花いっぱいの庭が家庭の平安を守ります。お互い様を失った都会の住宅地で、呆れるほどの花を咲かせて、その花咲く庭が連鎖して行けば素敵な地域となってゆく。誰だってそんな街で暮らしたいんですから、きっとそうなってゆくに違いなし。殺伐として暮らす人も引きずり込むほどの幸福感を放つ庭が、ちょっとずつでも増えてゆくといいなあと、法事を終えた散歩道で思う田舎者。