縄文ルネッサンス
すみませーん、しばらくぼくの携帯が繋がらずにご迷惑をおかけしました。au を使っているものですから報道されていた通信障害だとばかり思い、復旧するまでのんびりと、昭和チックに過ごそうか、などと思っていたらさにあらず、携帯の不具合でした。先ほどショップへ行ってSIMカードを新調したら治りましたので、繋がらなかった皆様、こちらに着信履歴が残っていないものですからどうぞご連絡をお願いいたします。 090-3570-3455 いわふち ひでとし。
絵画であれ、音楽であれ、文学であれ、芸術とは自然の再描写である。
故にモチーフが不自然であれば、それは醜い落書きなのだ。
ええっと、誰の言葉だったかなあ・・・
あ、思い出した。中二病だった頃のオレだ。
で、何が言いたいのかというと、
あなたも私も自然の一部であり、自然を模倣しながら暮らすアーティスト。
庭は自然の再描写なり。
さてと、庭仕事庭仕事。
思い起こせばポケベル時代がありました。その頃現場をお願いしていた入谷の親方がハイライトで一服しながら、「職人がこんなの持たされるようじゃあ世も末だ」と、電波の紐に繋がれた犬みたいな気分を嘆いたいたものです。あれから幾星霜、今では携帯が繋がらないだけで仕事の流れが止まってしまうわけで、いやはや、便利になったのか不便になったのかわけワカメ。パソコンもそうです。設計にはCADを使っているので老眼を気にぜず、指がペンシルの粉で黒くなることも、消しゴムカスが散らかることもなくなって、スイスイ描けるから数はこなせる。でもよくよく考えれば、製図台を知らない若い設計者が、さほど深く思考せずに設計らしきものを仕上げてしまって、内容的には少しも進化していない。それどころか考えなしに手軽にパーツをはめ込む手法によって、楽しくもなく、なんの役にも立たない庭が次々と出現する体たらく。道具の進化は社会全体のスピードを上げるので、結果、誰もそれによって利益を上げることはないわけで、制作プロセスが楽になるためかえって利幅は狭まってしまい、薄利多売で労働は過酷になるばかり。頭がいいんだかわるいんだか、科学の進歩は中身を薄くしつつ人の尻を叩く責め具が増えただけのような気が。
まあ爺さんの嘆きではありますが、間違いのないことは、どれだけデジタル科学が進もうとも、ものづくりの本質はアナログなのです。暑けりゃ大汗かいて、筋肉痛や打身の痛みを我慢しながら、吉野家で朝牛かき込み創造の意欲に火をつける職人魂がその基本。・・・そんな時代もあったねと、ああ、昭和の修行時代を思い起こせる幸せよ。IT産業が花形となった今、若い人は汚れ仕事などする気もないんだろうなあと思っていたら、この頃はアウトドアワークがトレンドだそうでして、左官、大工、塗装、園芸・造園などを志す若者が急増しているそうな。そして農業人口も増加に転じたとのこと。いい傾向である。そもそも日本以外の国の多くで、かつての日本がそうだったように、家には必ず道具箱があって、そこにはカンナやトンカチや差し金が入っている。DIY女子など趣味で行う日曜大工の範疇ではなく、暮らしの一部として大工仕事をしていたし、わずかでも土があれば畑にしたし、雨漏り修理やペンキ塗りなんかは、よっぽど大掛かりじゃない限り業者に頼むものではなかったのだ。
あ、いかんいかん、世の中急速な進歩について行けずに愚痴を言う花咲か爺さんになってしまいました。でも、まあいっか、たまには。続けます。EXPO'70 ってあったでしょ、大阪万博。ぼくが10歳の時です。その時のスローガンが「人類の進歩と調和」でした。さてさて、あらゆる分野で科学的には進歩はしたわけですけど、調和の方はどうでしょう。会場入り口の広場に今も突っ立ている、あの縄文のトーテムポール、太陽の塔。岡本太郎の天才性は、混迷を深めるであろう未来人に向かって、縄文人の人間らしい営みを思い出せ、幸せとは科学の進歩とは比例しないのだ、と考えていたことにある。芸術は、爆発だ!とおちゃらけていたけど、その根底には、科学は進歩するが、進歩すればするほど心の能力が問われる。愛情や信仰や芸術を退化させるんじゃないぞ、という叫びだったのです。
実際、どこの美術館に行っても、縄文土偶や火炎型土器を上回るアートにはなかなかお目にかかれないわけで、絵画でも、ダ・ヴィンチであれ、カラヴァッジョであれ、印象派の面々も、日本の縄文文化を上回るものではない。つまりは芸術はゆっくりと退化している。芸術性の退化は人間性の退化。これ、少し言い過ぎでしょうか。しかーし、大きく外してはいない気がするんですけどねえ。人類は科学の探究をするほどに精神面は疲弊する。月に行った人のひとりは帰還後はNASAを離れて宣教師になったし、日本人初の宇宙旅行をした、確かTBSの社員でしたか、帰ってきてからは言葉少なに表舞台から消え、余生を農業で過ごしたと記憶しています。お二方共に、何となくですけど、何か行ってはいけない領域に踏み込んだことを宇宙の神に懺悔して、口を閉じて、人間の原初的な暮らしに入っていった気がしたものです。遺伝子のこととか、科学はやり過ぎたらまずいんじゃないのかなあと、ええ、何となく。科学に注ぎ込んでいるその叡智を、心に向けたらいいんじゃないかなあ。最近宇宙旅行をした大金持ちの青年なんかは、その事業の成功と偉業を(スポンサードしている番組以外)誰からも賞賛されることなく、半分笑ったような、悩んでいるような中途半端な顔で、意味なくお金をばら撒きながら、次は月旅行に行くのだと話せども、やっぱり世の中との隔絶、浮世離れの感否めず、どんな末路を辿るのかが心配ではあります。悪い人じゃないんだけど、何か大きく踏み外している気がして。もしかしたら心が退化した形で膨大な財力を得てしまった、ホモサピエンスの進化系なのかもしれません。いやあそれにしても、あの表情は・・・どうかトンチンカンな顔をした大富豪にバチが当たりませんように。
人の顔というのはビッグ・スマイル、あるいはボロボロ泣いたり、怒りに燃え上がっていたり、土偶のごとくポカーンと月を見上げていたり、少なくとももっと人間らしく溌剌としているものだったはず。そこにトーテム(宗教的シンボル)が生まれ、絵が描かれ、祈りの音楽が奏でられる。アートは世に連れ、世はアートに連れ。であればイキイキと躍動するアートを取り入れて、縄文からの心の退化を止めなければなるまいて。先日、何年も積みっぱなしで置いといたダ・ヴィンチ・コードを一気読みしました。いやあ面白い面白い。ルーブルの床に投げ出されている、カラバッジョの絵から始まる宗教サスペンス。最後の晩餐、岩窟の聖母マリア、フィボナッチ数列、マグダラのマリア、キリスト教が抱え続けてきた闇の解明、そして殺人事件の結末を家族愛に引き上げてエンドマーク。読後感がとってもいい。世界で売れに売れた作品だけのことはあります。すでに古書の部類ではありますが、文学もアートですから、心の退化を止めたいと思う人にお勧めですよ。ただし、この小説、長い。それと最初の数ページが取っ付きにくくて。しかしそこを堪えれば、あとはスピーディーな展開に心地よく巻き込まれてゆきます。もしかしたらあの取っ付きにくさは作者が仕掛けたダ・ヴィンチ・コードだったのかもしれない。ぼくはそれにまんまと引っ掛かって何年も読み進めずにいたのかも。で、あれば、もう一度最初から。謎解きが難解で、一部理解せぬままめくった箇所もあるし。それと、主人公のロバート・ラングドン同様、フランス警察の暗号解読官ソフィーに、ほのかに恋をしてしまったのです。久しぶりに再読したい本に出会いました。
あ、そうそう、携帯が復旧したことの連絡でした。連絡つかずにご迷惑をおかけした皆様に陳謝。そして御用の方はいつでもお気軽にどうぞ。文明の利器を大いに活用して、心の進化を図りましょう。