こだまでしょうか
「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。「ばか」っていうと「ばか」っていう。「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。そうして、あとで、さみしくなって、「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。こだまでしょうか、いいえ、ひかりです。
奪えば奪われるから奪わないし、疑えば疑われるから疑ったりしない、それくらいのことはガッテン承知の助だ。信じる者は信じられ、与える者は与えられる。ふむふむ、さもありなん。感謝すれば感謝されるし、愛すれば愛される。おお、知ってるよそんなこと、と知ってるつもり?!だったやもしれず、これを知る者はこれを行うものに如かずして、これを楽しむ者にはさらに遠く、されば遠い世界に旅に出ようよ、それとも赤い風船に乗って雲の上を歩いてみようか。って、こどもでしょうか、いいえ、もうすっかりおとなです。
横浜は暖冬のまま春になりそうで・・・
スキーに行きたいなあ。
冬不足がじわじわと来ています。
因果応報というのかギブアンドテイクというのか、案外単純な自然界のシステムを福岡伸一教授は動的平衡と名付けた。なるほど!ザ・ワールド、よおく考えるとそういった類の単純なる道理に沿って進む人の方が幸せをつかんでいる、ということに気づいた複雑系な自分。都市の暮らしが長すぎたのか、長閑さ無くした田舎者。さればせっせとわが世界の中心である庭に出て、故郷の越後山脈へと続く空に向かって愛を叫ぶことといたしましょう。
「あなた」と呼べば「あなた」と答える、山のこだまのうれしさよ。「あなた」「なんだい」空は青空ふたりは若い。そう、あの頃きみは若かった。
「幸せだね」っていうと「どこが」っていう。「今日はきれいだね」っていうと「今日はってどゆこと、何を買いたいの」っていう。「いやいやそうじゃなくてね、なんか、ふと、きみってきれいだなあって思ってね」というと「そういうのはいいから、早く設計を上げて欲しいんだけど」という。そうして、あとで、さみしくなって、「今朝はごめんね」っていうと「あんたのごめんは聞き飽きた」という。こだまでしょうか、いいえ、だれでも。
叫べど返らぬ遥かなる山の呼び声。山の神よ、何をそんなにトゲトゲしておるのだと思うのだが・・・けん怠期でしょうか、いいえ、だれでも。
まあええわいな、「不機嫌は自分が損するだけだよ」という苦言も聞き飽きただろうし言い飽きた。子曰く、言葉が意味を失ってからが夫婦の正念場、寡黙に間合いを図りつつ人生の仕上げとなる共同作業をする季節なのであろう。
「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。「ばか」っていうと「ばか」っていう。「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。そうして、あとで、さみしくなって、「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。あれは幻想だったのでしょうか。
何はともあれ、山の神様たちよ、日々機嫌よく過ごそうじゃああ〜りませんか。え、花粉症?いやはや毎年のことながら困ったものですなあ。でもねえオレが花粉を撒き散らしているわけじゃないんだから、それって八つ当たりでしょ。まあまあ気を落ち着けて、ようやくバラが終わったから肥料をやって、花咲く春を思い描いて過ごしましょう。
そうだ、この曲、アレグラよりも効くと思うよ。
ちなみにお若い方々はご存知ないと思うので付記します。山の神とは「結婚から年を経て口やかましくなった妻・かかあ」の意なり。
「ただいま」っていうと「ええっ、もう帰って来たの」という。こだまでしょうか、いいえ、だれでも。