いわふちさんちの庭はさぞかし素敵なでしょうね、と言われることがある。素直に「最高です」と答える日もあれば、「紺屋の白袴ですよ」と受け流したりもする。その問いの裏側に「でもうちの庭は・・・」が透けて見えた場合、「・・・」が庭を楽しめない(と思い込んでいる・思い込もうとしている)ありとあらゆる理由付けが、次の台詞として弾薬庫に用意されているので、政治家ばりに答弁を逸らして別の話題へと移ってゆくことに決めている。時間は効率的に、生産的に、発展的思考で楽しく感動的に使わなければならない、そんな年齢に達しているのだ。やれやれ、文体が春樹っぽくなってしまう。これは昨晩、庭の書斎で何度目かの『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいたから。湿り気で質量を増した空気が海水で冷やされて、江ノ島から庭へと運ばれてくる、梅雨間近にマジかの心地いいひと時に、昼を回想すれば孫たちが遊びに来てくれたし、泣いて、笑って、駆け回って、やはりこの庭は「最高です」なのです。
庭の日常
ミソチン登場。
おっとりピちゃんにもとうとう人見知りが始まり、
おじいさんが悪魔に見えるらしい。
お姉ちゃんは今日、幼稚園の体験入園だそうな。
成長の速度は庭の草花以上。
もしもこの仕事をしていないとして、ぼくははたして庭の魅力や重要性に気付いていただろうか、と考える。もしも村上春樹が小説家ではなくジョギング好きのジャズ喫茶のマスターだったとしたら、文章が持つ魅力や重要性に気付いていただろうか、菊地成孔がミュージシャンではなく文筆家だったとしたら(音よりも著作の方により強く惹かれているファンとしては、音楽以上の才能を感じるのですが)、音楽が持つ魅力と重要性に気付いていただろうか。たぶん、だが、気付いていただろうと思う。庭も文章も音楽も、生業に関わらず誰の人生上においても、魅力的で重要な事柄であることは間違いのない、鳥にとっての翼みたいなものなのだ。
ジョンが残した未完の曲を3人で仕上げたという、ビートルズ最後の作品を、菊地成孔による意訳で。
鳥のように 自由に それがその次の 最高なこと
鳥にように自由に
快適なベッドルームに 巣に戻る鳥たちのように
翼を持つ彼らのように
どうなってしまったんだよ かつてのぼくらの あの暮らしは
本当にお互い無しで暮らせるだろうか
どこで見失ったっていうんだ あんなに大切だった 感触を
きみにいつでも ぼくはとても豊かにしてもらっていた
鳥のように 自由に それがその次の 最高なこと
鳥のように自由に
快適なベッドルームに 巣に戻る鳥たちのように
翼を持つ 彼らのように
なることを・・・
どうなってしまったんだよ かつてのぼくらの あの暮らしは
ぼくにいつでも きみはとても豊かさをくれた
自由に