闘争からの逃走
7月半ば、作業場で育てている植物から発信された「今年はいい夏になリますよ」というささやきが的中いたしまして、それはそれは夏らしい夏の真っ盛り、これぞ盛夏。暦の上ではこないだの日曜日に立秋、秋がすっくと立ち上がりましたから、夏の元気なご挨拶は、残暑お見舞い申し上げ候。候、ソーロー、ソー・ロング、どうかお元気で、あた逢う日までは阿久悠&筒美京平による昭和歌謡の金字塔。ふたりでドアをしめて、ふたりで名前消して、その時心は何かを話すだろう、と、夏は別れの季節なり。
夕立が行き、淡く色めく芙蓉花。
レンズ越しに、暑さで血走った目が癒されました。
昨夜読んだ『海馬/脳は疲れない(池谷裕二・糸井重里共著)』によれば、
脳の疲れと感じていることの大半は、実際には眼精疲労だそうです。
脳はちょっとやそっとじゃ疲れないだけのキャパを持っているとのこと。
そうとわかれば目薬差して、夜の庭にて読書とか、脳を使って暑気払い。
広島、長崎、そして終戦の日、お盆もあるし、16日はエルヴィスの命日だし、何故この灼熱の、アドレナリンが沸騰して情熱の嵐荒れ狂う季節に膨大なお別れの日が重なるのでしょう。単純に、暑いから心身が狂ってしまうのか、はたまた神による、生態系維持に伴う整理整頓作業なのでありましょうか。ああ、神様お願いだ、罪なき人へのご無体だけはお許しください。え、いちいち調査し選別してたら効率が悪い?ふむふむなあるほど。たとえ神様であろうとも、神々がおわすその世界は権力争いが絶えない社会ですから、そうか、そうですよね、闘争に勝ち上がって玉座に君臨するためにはコスパ重視もやむを得ないわけですね。いやはや。
そうか、そもそもどの神様も、弱者を導く強者、神乱立する社会でのし上がり権力を得たリーダーで、迷える子羊たちに「良いか、徳を積むのだぞ。徳を積むとは、収入の1割を教会に献上することですぞ」と扇動する。「さらに徳を積むためにこの壺を買いなさい。さすれば未来永劫末代まで、邪悪な霊から逃れることができるのだ」と洗脳をする。羊の脳内にあった、悲しみ、悦び、恐れ、希望、恨み、愛情、ぼーっとすること、そういった諸々の感情がトータルとしての人格を保ち、絶妙のバランスで咲く百花繚乱の脳内フローラを形成しているわけで、そこに洪水を起こして何もかにも洗い流して泥田にしてしまうのが宗教のやり口。「ご安心なさい、これで美しいハスの花が咲きますよ。あ、肥料が必要だから更なる献金をお願いしますね」と洗脳された羊はネギを背負わされ、哀れな鴨にされるのでありました。
もうやめちゃった方がいいんじゃないでしょうか、強いものに導かれるシステム。権力欲なんてえのは一種の心の病なわけでして、そのウィルスにやられると、アドルフしかり、プーチンしかり、いやいや日本でも過去何度も権力欲パンデミックがあったんですよ、はるか昔から。鎌倉殿、信長・秀吉・家康の三英傑、明治期には西郷どん、東條英機、近々ではですね、暗殺されてしまった元総理もまた権力ウィルスに蝕まれていた人でした。ただし、これらの人たちは歴史上では全員耀き英雄です。つまりはそういう時代だったのです。戦争は政治家の大事な仕事でした。軍人ともなればなおのこと、正義のために人を殺す者は正当かつ賞賛に値する偉人であり、子供たちは憧れ、大人たちは熱狂の賞賛を浴びせた。だからですね、つまりですね、何と申しましょうか、もうそういう価値観を消し去って、正義は己が内に向け、成功者や権力者ではなく自然界の営みに導かれて暮らす、というのが正解だと思うんですけどねえ。日本人はそれができる。やればできる。なんつったって天照の神話に基づき八百万の神という概念を持っている稀有なる民族なのですから。
ロシア人が無闇に戦争好きなのは古代から変わらないこと。日本とも何度もやり合って、西郷さんなんかは「近いうちにロシア軍が侵略してくる。その危機に、我が勇猛なる薩摩軍が先陣を切って突撃をし、ロシアを打ち払う」そんな日を夢想しながら自決したそうな。実際ロシアの進撃に抗することから日本は軍事国家となり世界大戦に突っ込んでゆくわけで、そこで出来上がった、今思えば狂った価値観でハワイの真珠湾を奇襲空爆。その後は年配の方ならご存知の通りで地獄の戦火が続き、鬼畜米英に対して一億火の玉。実際は火だるまになった。沖縄の悲惨、東京大空襲、特攻隊、最後は原爆ふたつ落とされてようやく終戦という出口に辿り着いたわけで、そう、きっかけはロシアなんです。言うならばウクライナはかつての日本と似た道を辿っている。ロシアですよ、ロシア。ロシア人(当時はソビエト人)に対して「ロスケ」などという蔑称が、ぼくが子どもの頃にはまだ普通に使われていました。
ロシア、ロシア、ロシア。何でしょうかねえ、あの国。暗いですよね。音楽でもバレエなどの演劇でも、名作名演に感動しつつも、何となく、歴史の窓からレースのカーテンを揺らして入る風と木漏れ日が、どこか気分が重苦しくなるような。それがロシア芸術の持つ重みなんでしょうけど、でも、もういい加減に、もう、いいかなって気にもなっています。闘争か逃走か。ぼくら人類はこの対岸の戦争を最後に、闘争に軸を置く古臭くて絶望的な価値観から逃走を図らなければならない。ああ、こんな時に、アメリカがタリバンの主導者を殺害したとのこと。そういうのも、もうこれを最後にしないとね、親愛なるバイデン様。それよりも銃規制と核の廃絶を。一度には無理であっても、この機に最低限、そっち方向に舵を切ってほしいものです。
縄文時代は一万年以上続いたそうで、その間には戦争が起こった形跡がないそうな。小さな争いごとはあったに違いなく、家庭内でも、お隣同士でも、部族間でも揉め事は繰り返された。しかし世の中にはまだ戦争にまで至るだけの大きな組織(国家)が存在せず、基本は天空と動植物、自然の営みをトーテムとした信仰めいた思考に従って、家族、町内会などの最小単位の安定(幸福)のためにだけ命を使っていたのです。そこに立ち返ればいいんじゃないですかね。国とか、領土とか、リーダーとか、権力者に憧れ導かれる構造、そんなものでは罪なき人の命は守れないということに気づいたのですから。いやあまったく、自称賢い人ホモ・サピエンスよ、ぼーっと生きてんじゃねえよ。ぼくらは今意識を変えないと、戦争による自滅だけでなく、自然破壊、原発、食糧危機、感染症など、絶滅へのカウントダウンに入ってしまう。ぼくやあなたはそう長くはないからいいけど、子や孫の世代に大きな苦しみを置いて行かないために、マジで、変わらなければ。何十年後か後のお盆にね、孫の美空から「じいじ君、なんてことしてくれたんだ」って言われたら、悲しすぎます。