火の鳥が舞う
8月は祈りの季節。NHKで放映される戦争関連の番組を気が滅入らない程度にチェックし、しかし気が滅入らない戦争報道番組などないわけで、その回復のために、録画でため込んであるプレバトやチコちゃんと代わりばんこで。だいたいは夜中から明け方にそんなことをして過ごします。そして夜明け前に庭に出るか、仕事へ向かうかしてセロトニン分泌の調子を上げる日々。猛暑日が続き、ひと雨あるとほっと生き返るような気持ちになって、さらに仕事への気合が入る。気がつけばお盆休みも終わって、シーンとしていたホームセンターに再びマスク姿のにぎわいが戻ってきました。何年振りかの帰郷で満ち足りた時間を過ごしてこられ方も多いのでしょう、売り場の雰囲気がおだやかで、やさしく平和な空気が満ちているような。つまり、なんだかんだ言って、いい夏ですね。
誰が植えたか向日葵は、平和を誓う夏花火。
ああ夏休み夏休み。
今年の夏はいつもの夏より長くなりそうな、そんな気がして。
とっても、とっても暑くて、い〜い夏ですなあ。
戦争番組の憂鬱さは、当時、狂気が狂気ではなく、狂気じみた指令を出す上官と、それに従い死んでいった実働部隊のその両方が、清く正しく美しく、勇気ある人物であったという設定から来ます。その結果、軍人と民間人合わせて310万人の死者を出しました。その310万人には親がいて、子がいて、連れ合いや恋人がいて、そういった近親者が5人いるとすれば悲しみに打ちひしがれ、呆然と泣き、人生のどん底を味わった人の数は1千550万人。戦後、その償いもケアもなく、人々は自力で正気を取り戻して立ち上がりました。必死で働き、ついに奇跡の復興を遂げた。それがぼくらの親世代です。そしてぼくらは戦争を知らない子供たちとしてあの戦争をどう伝えていくべきなのか。ぼくは、そしてぼくら世代は子どもの頃から、「戦争の悲惨を子や孫に伝承せよ」という課題を背負わされて育ちました。でも、ぼくは、ですけど、そんなことを具体的にやった記憶がない。ただなるべく、戦争を知っている大人たちの声を記憶しておかねばならないという、そのくらいが関の山。
どう伝えていくべきなのか。記憶しておかねばならない 。べきなのか、ねばならない。毎年そう思いながら過ごしている8月という季節に、今年初めて違う思考が出てきました。果たしてそれが良い考えなのか悪きことなのかはジャッジできないままに、一応書き留めておこうと思った次第。その思考とはですね、ぼくらが語り継ぐことよりも、戦争の記憶を持たない世代にお任せするというか、その方がいいのでは、ということ。ぼくら世代には未だに、戦闘に命を散らせた人たちへの賛美めいた気持ちが残っています。NHKの番組でも悲惨さを伝えつつ、そこでの死への決断、祖国や家族を思い泣き叫びながら突撃していった者の心情を描写するし、アニメや映画でも反戦を歌いながらもその苦難を耐えた人々の姿をドラマティックに描いているしで、誰ひとり「戦争なんて狂った人間の愚行だよ」と、歴史を袈裟斬りにする人はいない。どう思います?ぼくには戦争を起こした人、巻き込まれた人、殺した人も殺された人も、全員狂っていたんじゃないかって、そこに結論を持っていかない限り、戦争反対は全学連のシュプレヒコール並みに無力に感じてしまうのです。
狂気、狂人、気狂いが、今日も家族を殺し、知り合いを殺し、無関係の人を殺している。その狂気は、もしかしたらですけど、戦争を人の狂気という基準で総括できない世の中の態度から発しているのではないか。狂った人は狂ったように持論を展開して凶行に至る。しかしその真の原因は愛情に恵まれない生育期にあったり、家庭不和の嵐の中で育ったことにあったり、あるいはカルトに騙され家庭が崩壊した末のことだったり。そういった狂気の種を、ぼくら世代は全員持っている。では戦争を知らない子どもたちよりのさらに若い、戦争のことは学校で習ったから知っています、という世代はどうでしょう。庭を通して、ぼくが知る限り、若い人はあの戦争と昨今の凶悪狂人殺人事件とを同レベルで捉えている気がするのです。戦争についてはぼくらより浅く、殺人事件はぼくらより深く、両方共に人は狂ったら平気で人を殺す生き物なのだ。だから狂ってはいけない。絶対に狂ってはいけない。親たちのように夫婦でいがみ合い、なじり合い、子供に当たり、闘争するかの如く仕事をし、隣近所とはなるべく関わらないように、そんな敵陣で暮らしているような人生は送るまい、と、押し並べて、不文律としてそう誓っている気がして。
ここ数年、意外なほど若い夫婦が見事な庭を実現しています。家族が集い、笑い、語り合い、花いっぱいの庭での自然を感じながらの暮らしを、ぼくがアピールするまでもなく求めている。対して中高年は・・・。つまりですね、老兵は死なず、ただ消え去るのみ。これを若者の立場から言えば、老人はあの狂気じみた戦争を聖戦であったと懐かしみながら、せいぜい長生きしてちょうだい。でも、そんなの関係ねぇ、そんなの関係ねぇ、はい、オッパッピー。ぼくらは狂いませんから。だって話は簡単で、妻を愛しているし、子供を愛しているし、自然も地球も愛している。だから狂わない。あなたたちみたいには絶対にならないしなるわけがない、と、きっとそんなふうなんですよ。我らの親世代には酷なことかもしれないけど、ぼくらは本当の意味で戦争に走ってしまったことを、同じ民族として検証し、反省し、鬼畜の行為をしてしまったアジアの人たちにはちゃんと非を認めて頭を下げ、それをぼくら世代で終えておくことが大事だと思います。その証として、最低限、夫婦仲良く家庭円満な暮らしぶりを子や孫に見せなければならない。そんなことを思いつつ、今日もせっせと幸福なる仮想庭を思い描いています。
簡単な話、単純な話、家庭が円満じゃないとしたら登場人物の誰かが狂っているから。厄介なことに、その狂っている本人が最も強烈に自分は狂っていないと言い張るし思い込んでいる。狂気は誰の中にも燻っているわけで、だから自分の正常さを疑って常にチェックする人が正常な人。では一体正常の基準とはどこにあるのか。美の基準、幸福の基準とも一致するその基準とは、自然です。自然の営みに則した暮らしから、健全さも、美しさも、幸せも成立するし、自然から離れた不自然な暮らしが殺人や、ひいては戦争を引き起こす、あるいは巻き込まれてしまう。庭はそうならないために欠かせない場所であると、庭のことを考え続けて幾星霜の老兵は思うのであります。簡単な話、単純に、庭にストレスを感じているようじゃあ家庭円満には辿り着けないわけで、逆に、庭があるから毎日健全に暮らせているんだという感謝に似た実感を持てるなら、あなたは大丈夫。今のところ、ですが、あなたは正常です。さっ、仕事仕事。積み上がった設計の山に向かって一歩ずつ着実に。この歩みは世界平和への長く曲がりくねった道也。
ああ、ああ、いかん、ぼくの狂気が蠢き出して止まらない。誠に不自然である。まあいいでしょ、毒を以て毒を制する。アルコール等の依存症治療には、他の依存対象をつくるというやり方があるように、狂気は傍迷惑にならない範疇で吐き出して正常化を図る、という方法もある。そもそも気に食わないのはロシアとウクライナだ。なんだあれは、ごっこ遊びみたいな戦争をダラダラと続けやがって。プーチンなんかどうせすぐに死んでしまうスターリンコンプレックスのろくでなしなんだから、アメリカは変に人道ぶらないで、使えもしない核に尻込みせずに、アルカイダみたいに速攻叩き潰せばいいじゃないか。ウクライナも変だよ。まともに狂人の相手をして抵抗するんじゃなくて、攻めてきたら即座に降伏すればよかったんじゃないのかな、今更だけど。民族が無事に生きてさえいれば、その後のことはどうにでもなる。報復の応酬なんて起こりっこないよ、人類は確かに平和へと進化しているんだから。それでも世界大戦が起こるとしたら、それは遅かれ早かれ下されるアホな猿への天罰としか言いようながい。何せこれだけ好き勝手やって、生態系にダメージを与えているのだからそれはやむなしであろう。それはそれ、髪の差配に従わざるを得ないとして、要注意、気狂いに翻弄されて気が狂う、ということはよくあること。それを昔の越後の人は、囲炉裏ばたで「共気狂いになるな」と諌めたものだ。簡単に、単純に、国のリーダーの仕事は民を幸福へと導くこと。だったら軍事じゃなくて、民に希望を与え、感動を生み出し、家庭円満を補強する、そうだなあ、例えば演劇や音楽や、クール・ジャパンのアニメみたいに人々の心を揺さぶる芸術作品が国力となる、というのが正解でしょうが。戦争?古臭いよ、そんなの。岸田首相が夏休み用に購入したという『サピエンス全史』を、冒頭部分だけでも読めばそのことがわかるはず。戦争をなくす唯一の方法はこれ、全ての家族が自然に倣い、庭を楽しみ、自他の狂気から逃れながら生きること。これ、正解だと思うんですけどねえ。だめ?お呼びじゃない。こりゃまた失礼致しました〜っと。さ、仕事だ仕事だ。平和に必要なのは感動だよ感動。そうだ、三年ぶりに火の鳥が天空を舞った、あの夜みたいに。
今年もたくさんの人が鎮魂の花火に感動しました。
戦争の悲惨からの復興を祈念する行事で、
その意図を遥かに超える感動に涙する、戦争を知らない子供たち。
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悔いよりも、悲しみから立ち上がる気力よりも、
疲れた心に明日への清々しい希望を湧き起こす音と光のファンタジー。
ジュピターは故郷の、末代まで歌い継がれる民謡になりました。
中越地震後のフェニックスが打ち上げられた最初の年、
長岡祭りの翌日に田舎の母から電話がありまして、
「お前、ジュピターって曲知ってるか。
おらあ花火見ながら泣けたて」と。
毎年思うけど、吉本由美さん、素晴らしいですよ。