ナチュラルな闘争・夜の庭
草原で暮らすか弱き草食動物トムソンガゼルは、群れて暮らし肉食獣から身を守っています。ただし、いくら群れたところでライオンはそれを恐れるはずもなく、逆に好物がまとまって草を食べているのですから、格好の食べ放題レストランを見つけたようなもので群れを襲わないわけがない。ではなぜガゼルは群れているのでしょうか。チコちゃんに教えていただきましょう。
見上げる星空は紛れもなく宇宙空間であり、
渡る風は地球の隅々までを何万回も巡ってきた空気の流れ。
夜の庭にいると、確かにそれが感じられます。
なぜガゼルは群れで暮らしているのか。それはね、犠牲者をひとりだけ置き去りにして、群れ全体は楽々と逃げられるから〜。ぼくらが考えると、身内を生贄にするようなその行為はとても残酷な事のように思えます。しかしガゼルたちは、そこに大きな悲しみなど感じていないことでしょう。群生動物にとってはその群れの存続こそが各自の幸福感の源で、少しの犠牲者は全体のために必要なのだという、遺伝子に刻まれた確固たる掟を持って生きている。これは弱者なりに培ってきたナチュラルな闘争手段、逃走のための闘争なのであります。
人もまた弱者。故に家族、仲間、社会、上手に群れる者は幸いなり。
とはいうものの、犠牲者は最小にしたいし、できるならそのような死に方をする者をゼロにしたいというのが、愛情豊かな我々猿の本意でしょう。ああそれなのにそれなのに、ガゼルに比べてむやみに不条理な死が多過ぎる人間社会の現実よ。不条理とは、「群れを守るため」ということとは無関係に、狂った猿によって突然奪われる命、という意味。ガゼルは狂わない。もしも狂ったとしたら即座に追放される。だから虐待したり殺したり、悪事に酔いしれて群れに迷惑をかけるような者などは、ただの1匹も存在しないのです。
昭和時代の悪い癖で、精神に異常をきたした者をを気狂い呼ばわりすることに抵抗がある我が世代。されば柔らかく、クルクルパーと称しましょう。クルクルパーは早々にとっ捕まえて、治療なり指導なりしないとえらいことになる。昭和の御代ではご近所さんが「一度お医者に診てもらったほうがいいですよ、ひどくならないうちに」と家族に指摘してくれたし、ご隠居や、お寺さんや、おばちゃん同士の井戸端会議で議題に乗せて、丁寧にクルクルパーを正常へと導いてくれたものです。今は残念ながらそれがない。最良の対処は「関わらない」こと。だから狂人は孤立し、愛情に基づく支援も拒絶し時には牙を剥き、ますます狂ってゆくばかり。
自然界の構成員として、ぼくらはいつの頃からか不自然な性質に陥っているのでしょう。草木であろうと虫ケラであろうと、自らの命を長らえるためには闘争を回避することはできない。生きるために、よりよく生きるために、敵とは対峙しなければならない。遠い国ウクライナのことは横に置いとくとして、身近では夫婦間で、親子で、家庭内であっても闘争を抜きにして平和は維持できないのです。闘争か、逃走か。知恵ある者は闘争を回避し逃走を選択する。しかしこれがなかなか厄介でありまして、逃げの一辺倒では幸福なる家庭は儚く崩れてゆく。夫にも、妻にも、子供にも、上手な闘争を展開する能力が必須なのです。
では上手な闘争手段とは如何なものであるか。それはですね、トムソンガゼルのように、ナチュラルであること。軸足を群れの掟、自然界のお作法から外さないで、愛情を持って闘うこと。困難に際して足元をすくわれ、不自然な領域に転げ落ちてしまった者は思考に障害を起こしてしまう。引きこもり、ゴミ屋敷、弱みにつけ込む宗教まがい、家庭不和、アルコールやギャンブルや各種依存症。不安に負けて、あるいは何かに深く傷ついて、カーテンを閉め切り膝を抱えてうずくまる人の哀れさよ。そう、心が病んでゆく入り口に必ずあるのが、庭を疎ましい場所であると認識してしまうことなのです。間違いない。本来であれば、健康と幸福の維持に不可欠な価値あるスペースなのに、それを見たくもない、出たくもない、雑草だらけの嫌いな場所にしてしまうことは、自然に背反する、症状とも言えること。ただしそういう家があまりに多いので、そこに危機が潜んでいるのだという声を上げる人など皆無なわけです。
庭に背を向ける人はガゼルが持つナチュラルさを失い、軸足が自然から離れ、やがて不自然な暮らしに喘いで愛情を見失う。当然のことながら諸問題に抗う気力など残っていようはずもなく、締め切った部屋で怯えて過ごすのみ。何度も目撃してきたカーテンを開けない人たちの叫びのような沈黙。かく言う我が家でも、これまでに何度かそういう場面がありました。実家でも、田舎の隣近所でも、お客様、庭を楽しむ賢者の方々であっても山あり谷ありで、やはりそんな時期を経験されているわけで、ぼくは例外を知りません。つまりは人類全員がクルクルパー予備軍であることは確かなようで、プーチンは狂っている、ルフィーとその一味は、ゴミ屋敷の偏屈爺さんは、などと言ってる場合ではなく、己が身と家族の健全さをキープすることが人生上の最重要課題なのであります。
こういうことというのは、他人事であるうちはピンとこない。ところが自分事となると、これほどキツいことはない。実際に我が身内がほんのりと軽く病んだだけで、ぼくにできることは少なかったのです。助けなければ、救わなければと四六時中その方策を考えても、クルクルパー側は抗ったり引きこもったりを繰り返すばかりで、しかしこっちは必死のパッチ。何日経っても、何ヶ月経過しても課題は解決することなく、手も足も出ないままに自分は疲弊してゆくばかり。唯一、必死でやり通したのが毎晩庭に出てひとりの時を過ごすことでした。ぼく自身の精神が自然から離れてクルクルパーに陥ってしまったら、結果として愛する家族を守ることができなくなってしまいますから。そんな思いで庭での時間を過ごし、それはすっかり習慣化して日々の大きな楽しみとなった頃に、ゆっくりとクルクル家族は回転を止め、危機の深みから浮き上がってきてくれました。その何度も何度も諦めるしかないのかとへたり込んだ経験が、面白いことに、その後の庭設計に変化をもたらしまして、こうして充実の提案が立て続いています。庭によって危機を切り抜けられたことと、その経験が仕事に活かされたこと、ぼくは幸運であった、太陽神アマテラスの思し召しなり、としか言いようがありません。
ナチュラルな闘争。苦難と闘わない者は、ベートーベンが第九で歌い上げている如くに去るしか道はない。愛情を失い闘い方を誤った者も、家族であっても家庭という群れから排除される運命を辿る。残酷なようでもそれはどうしようもないこと。群生動物ホモサピエンスに幸あれ。庭ですよ庭。庭があなたの正常性をキープしてくれる大切な場所。庭ごときで何を大袈裟な、と思うなかれ。今現在正常な精神で暮らしているあなたが、その健全な心のままで人生のゴールまで辿り着ける可能性が極めて少ないことを、年配の方ならご存知のこと。幼児には幼児期の、青年には青年期の、成人、中高年、老年、至る所にクルクルパーの落とし穴はある。最低限自分はそこに落っこちないように、軸足を自然に置いて暮らしましょうぞ。見事に、最後まで。
久しぶりのアップがごんなエグい話で申し訳なし。大谷の活躍に感動し、感動した分、相も変わらぬ世の中の悲惨な事件やら、これまた絶えることなく持ち込まれる、庭にまつわる不愉快なご近所トラブルのことが脳内に浮き立ちまして、ここいらで一回クルクルパーへの見解を整理し書いておこうと思った次第。ついでにもうひと言、幸運にも本日精神が健やかで、侍ジャパンに感動した皆様へ。過ごすタイプの庭の場合、日中よりも夜の方が何倍も癒しを与えてもらえます。ほんの5分でいいから夜風と星空を楽しむことをお勧めします。けっこう真剣に、愛と平和な世界を実現するために。っと、「するために」は尊大にすぎるので、 世界が Love & Peace に向かうことを願いつつ、くらいで。