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北海道の友人がコロナで亡くなりました。半日ほど呆然とした後に、彼と過ごした膨大なる青春的時間の記憶を辿って数日を過ごし、そうこうしているうちに、彼がぼくの中に引っ越してきたような感覚を得ることができて、ようやく平静な気落ちで仕事に没頭できる状態にまで復帰できました。今後はぼくの脳内で、気の置けない、信頼できるアドバイザーとして生き続けていただくという手前勝手な任命をすることで、予期せぬ出来事に活着をつけたわけです。感謝とか、お詫びとか、もう一度でいいから会いたいけど今更どうすることもできないし、変にドキドキしながら携帯にかけてみたものの、すでに解約されているらしく繋がらないし、何度も何度も考え、考えあぐねた末に思いついた人事でした。
コロナが始まって以降、連日突きつけられてきた死者数という数値化された命の数は、それを微分するまでもなく本質的には1が0になることです。家族や知人にとっては自分対相手の1:1が1:0になること。感染症や戦争で死者数が何万人積み上がろうとも、1が0になる辛さ、悲しみは決定的に個人的な世界でのみ起こる現象であって、それがいかにとてつのない痛みを伴うものであろうとも0は0だから、10000人死んでも掛ける0は0のまま。
1が0になる悲しさの量が愛情の量なのかな、などと。であるなら、失恋が辛かったからもう恋などしないのか?それはない。愛ある世界に生きる人は運命的に悲しみを知る。故に他者の命を奪うことなど絶対にできない。他者にも人生があり、家族があり、自分と同等の喜怒哀楽や生きてきた歴史があると思えばそんなことなとできっこない。対して、愛なき人は平気で野の花を蹴散らして進軍するわけだが、さて、両国共に愛なき人など存在しているだろうか、と考えてしまう。どう考えても両国の兵士は1の単位では家族を愛し、愛されて育ったに違いないのですから。ではなぜ、破壊し、殺し続けるのか。
ロシアの戦勝記念日のパレードは見るに耐えなかったのです。行進する兵士たちの顔が一律で気味が悪いこと甚だしく、それが生物的にとても醜く見えました。昆虫であれ、爬虫類であれ、あの男たち以上に醜い生物をぼくは知らないし、そもそもあらゆる生物は美しいものだから、もはや生物の範疇に置いてはおけない生き物のように思えてしまって、大袈裟ではなく「ウラー(万歳)」という地響きのようなユニゾンには吐きそうになったのです。狂った者の集団、集団故に陥ってしまう狂気の姿で、まともな思考を無くしてしまった、つまり1単位の愛を無くしてしまった猿の軍団 。
彼らを狂わせた言葉は両軍共に「正義」だ。それがフェイクであろうと正義という言葉は人をいとも容易く狂わせる。狂えば狂うほど正義を振りかざして暴れまくる。これは戦場でなくとも同じことで、アル中とか何らかの人格の歪み、うっすら壊れたご婦人や、しっかり壊れたお爺さんは決まって正義の自論をがなり立てては、家族や周囲に迷惑をかけている。ご本人はそれが生きがいであるかのように、お得意のダブルバインドで依存的敵意を乱射するし、隣人や見知らぬ人にまで意味不明なクレーム攻撃を繰り返す。いやはや、ウクライナの問題以前になかなか解決がつかない課題、狂気じみた人から身を守る術を身につけないことには、幸福な人生をキープすることができないのです。庭の相談でも、常に一定数は隣人トラブルで、横浜の、遠目には花さく閑静な住宅地であっても、局所的には、実はそこが戦場だったりするという現実。全くもって、家庭円満で平和に暮らすことの困難さたるや。
さてさて、では狂気に対していかに処すべきか。まずは察知すること。次に近寄らないこと。近づいてきたら逃げること。あるいはキッパリと拒絶すること。そして何より効果があるのは、庭を美しく整えて暮らすことです。またそれか、と言うなかれ。これは効果絶大であり、狂気に対する防御効果以上に我が身と家族の正常さを保つための手段としては、間違いなく最良の方策なのです。なぜなら狂気とは、常軌を逸するとは、自然と歩調が合っていない不自然な状態のことですから。庭にある自然の営みとそのリズムは、地球が自転しながら太陽を周回する途方もなく巨大なマスター時計に従っているので、絶対に狂うことがありません。それが自然であり、正常ということです。もしも庭が嫌い、あるいは庭からストレスを感じているとしたら、そう感じている人間の方に狂いが生じているということ。
大丈夫でしょうか。パートナーやお子さんや、そしてあなた自身も、やたらにカーテンを閉めたがるという症状が出始めたら要注意。漠然と、何年にもわたって庭への不満を持ち続けているのに、愚痴を言うばかりで何もしないでいることも。庭くらいはさっさと理想の場所に仕立て上げて、そこで展開される喜びと感動の時間を過ごしていただきたい。季節と太陽の動き、自然というマスター時計に自分を同期させることから始めないと、最小単位の愛情を見失った状態のままで、愛する家族とのクラクラするほどの幸福を実現できないまま終わりが来てしまいます。もちろんご存知でしょうけど、本当にそうなんですよ、ある日突然に。
バイタリティーあふれる発想と愛情豊かな人柄で事業を成功させ、会う人会う人に希望を配り、幸福な家庭を築き、たくさんの人に愛された脳内のアドバイザーは、会話の中でよく「そんなことは当たり前の真ん中だ」と言っていました。人として当たり前であること、正常であること、ごく普通であることが大事なのだと、きっとそれを信条にしていたのでしょう。彼が大好きだった曲が、The Long And Winding Road 。ポールの東京ドームで、隣で大声で歌っていた音痴な声が忘れられない。ぼくはといえば、本物のビートルズが目の前にいることに感動して、泣けて泣けて、もっと調子っぱずれに歌っていましたが。反対隣の女房は、アホな男ふたりに呆れて笑ってたなあ。そう、笑っていた。今思うと、すっごく可愛らしい笑顔だったなあ。・・・さてと、仕事仕事。今日も全力で、笑顔が溢れる幸福な庭を思い描きます。