月を詠む
歴史上に残る和歌を集めた本『国歌大観』には42万首が収められています。それを解析した研究者によれば、和歌の題材で一番多いのが「月」で6万首以上、続いて「風」が5万首弱、印象的な和歌が多い「桜」は1万首で、桜を加えた花全般で5万4千首、「心」が4万2千首、「涙」とそれを連想させる「雨」「露」を合わせて5万2千首だそうです。その他の事柄に対してこれらが突出していて、つまり和歌とは月、風、花、心、涙を詠む傾向というかお作法がある文化だったのか、あるいは純粋にこれらが人々の情感や思考の中心にあったのでしょう。
月、風、花、心、涙、どれも庭で過ごしていて気持ちに引っかかってくることばかり。
古事記ではイザナキとイザナミが生み出した3人の子供(三貴神)が日本列島を形作り、そのまた子孫の神々が暮らし方や文化を広めて出来上がったのがこの国であるとされています。
三貴神。
天照大御神(アマテラスオオミカミ)/ イザナキの左目から生まれた神。太陽の神。
月読命(ツクヨミノミコト)/イザナキの右目から生まれた神 。月の神。
須佐之男命(スサノオノミコト)/イザナキの鼻から生まれた神。海原の神。
アマテラスとスサノオはご存知の通り、数々の逸話が伝説となって全国の神社に語り継がれています。それに対してツクヨミノミコトのその後は古事記・日本書紀に出てきません。これはもしや、と、月明かりの庭で思うのは、アマテラスとスサノオはそれぞれに生身の人間的な苦悩を抱え、もがき苦しみ、ついには偉大なる神になったのに対し、ツクヨミは生まれてすぐさま人々と同化したのではないかと。太陽神となったアマテラスの輝きは民に収穫の恵みを与え、スサノオの大海原は畏怖と共に海の幸をもたらした。では月は。月は地上に人が出現する以前からすでに天空で微笑んでいた。存在自体で人々に家族の健康と幸せを、個人には希望の明かりをもたらし、月を見上げるその人の内面からアマテラスとスサノオをフォローする役回りに徹したのではないかと思うのです。
興味深いことに、ギリシャ神話の月の神セレーナー(ローマ神話ではルーナ)は、ゼウスをはじめとする他の神々がドロドロの人間模様を繰り広げるのに対して、ただ静かに美しく輝いているだけで、スキャンダルやら恨みつらみとは無縁の存在になっています。これはツクヨミと似た扱いです。やはりいきなり庶民側に居場所を用意され、人々の心の中で希望を灯し続ける役を与えられた神だったのでしょう。
月読命(古事記)、月夜見尊(日本書紀)。思えばこうして毎夜毎夜庭で時を過ごすようになったきっかけは月明かりでした。震災後の計画停電の夜に、女房が「あれ、外が明るいわよ」と。キーンと冷えた空気に光る眩しいほどの満月でした。芝生に落ちた影法師にハッとして、それから11年、ツクヨミに導かれるままに続いている庭時間。よろしければあなたも、秋の夜長を庭で、暖かい格好で、月に照らされて過ごしてみませんか。もともとそういうことに暮らしを支えられて生きてきた民族なんですし、月を見る習慣はついこないだの昭和まで、秋の庭での風習として行われていたわけですから。
そういえば月に一度、仲間が集っては庭で『月を見る会』を開催しているというお客様がいらっしゃいます。そのお庭は木々が茂る傾斜地の中腹にあり、空に突き出すようなデッキがあります。下の道路から見上げるといつも夜は明かりがついていて、今宵も庭で夕飯を召し上がっているんだろうなあと、いい感じだなあと思いながら通り過ぎています。
高機密・高断熱・全館空調・Wi-Fi完備。職業選択の自由があり、恋愛の自由があり、思想信条の自由がある。徴兵はなく、暴君はおらず、餓死の心配もない。有史以来こんなに恵まれた時代はただの一度もなかったのに、心が満たされている人の割合はいかほどのものか。時々は静かに美しく微笑んでいるツクヨミに、その不満の理由を問うてみることが大事なのかもしれません。庭ですよ庭。今宵の月はいかな光を放つでしょう。