メロウでマーロウな夜の庭
就寝前に庭を楽しむようになってそろそろ8年が経過する。その小一時間ほどの習慣でどれだけ本に読みふけり、そしてどれだけ自分と語り合っただろうか。自分と、というのはやや的確さを欠くかもしれないが。
静寂の闇からヤツが声をかけてきた。いつもの友の、いつもの声。
ミスターマーロウ、どうした、ずいぶんと弱気になっているようだが。
マーロウ?ふふ、いかにも。今夜はあのうだつの上がらない、タフを気取っているが中身はいささか繊細に過ぎる、哲学と孤独をこよなく愛する騎士のような気分にのしかかられて、今にも押しつぶされろそうになっている。
やっぱりね。普段より背中が丸まって、身長が50センチは縮んだように見えるよ。村上春樹訳のチャンドラーでも読んだのか。あれは大いに楽しいのだが、しばしば男のロマンという重圧をかけてくるからね、その重さに耐えられそうもない男限定だが。あ、いや、きみがそういう男だと言っているのではないのだが。で、いったいどうした、何かあったのか。
特段何も。ただ少し眠りたいだけだ。いや、少しではなくビッグ・スリープ、大いなる眠りにつきたい。ただしロング・グッドバイとならずに、再び目覚めるという神の確約付きでね。眠りが深いほど朝日を明るく感じられるものだから。
うん、なるほど、つまりお疲れだってことか。
おいおいよしてくれ、オレは疲れ知らずの私立探偵だぜ。正義と信念の男にその言葉はご法度だ、たとえ泥水に半分溶けているような夜であっても。
でもありがとう、きみ以外にぼくの身長が縮んでいることを気遣ってくれる者はいないからね。だいじょうぶ、マイフレンド、感謝しているよ。
まあ、いつもいい調子ってわけにはいかないものさ。それにそうやってへたり込んだり感傷的になるのは悪いことではない。感傷は猿を直立させた崇高なる情緒にして、感情の樹形を美しく保つために不可欠な枝だ。
やれやれ、瞬時にそういう見事な肯定的回答を導き出せるとは、きみはもしかして神に近い存在なのか。神々はいつもそうやって無責任に物事を肯定する。アッラーも、ブッダも、大きな翼を持ついかつい天使たちも。年末の夜中にミカエルって映画をやっていたんだが、まったく、ぼくのような極東の隠れキリシタンにとって、本場のクリスチャンが描く大天使は残酷で、暴力的で、冷血と言えるほど無慈悲な存在に映ってしまう。彼らの主人がそうであるとは思わないが、まあ、偉大なるグルの思想を地上に展開するために働く、至極有能な幹部連中ってところなのだろう。そんな映画だった。深夜の映画がいつもそうであるように、寝不足な脳に少し嫌なノイズがブレンドされたよ。
きみはそんなB級映画のレベルではなさそうだ。もっと上等な、なんというか、きみにはとても馴染めるから。やはり、神なのか。
神?それ以上さ。
なあるほど。ああ偉大なる友、自然、あるいは神々が住む楽園を取り仕切るガーデナーに乾杯。
いや、なんというか、今夜は疲労とは別の事柄として、だが、たまには静寂に耳を澄ませながら日常とかけ離れた場所へ行きたかったってところかな。日常の庭にいながら行ける非日常はふたつある。過去と、未来。
ふむふむ、それで?
普段は未来に行くことにしている。主に明日へと先回りして、設計が見事にはかどり、素晴らしい出会いがあり、いくつかの発見と感動があり、心には恋に似たような明かりが灯り、夜には充実感に包まれ極限まで冷たくした缶ビール片手に、至福を約束地てくれるこの庭に戻ることができるよう段取るのだ。段取るといってもただ目を閉じて、すでにそれが成されたことであるとイメージするだけだがね、概ねそれは魔法のように功を奏する。
知っているよ、きみのいつもの見慣れた庭のルーティン、好ましき者の行い。
ただしだ、魔法というものは常に奇跡的でなければならない。だからそのイニシエーションが日常的になりつつあると思った時には、もう一方の過去を選ぶというわけ。まだ魔法を魔法使いの特権だと信じて疑わなかった頃の過去をね。
過去・・・なるほど、時には悪くない選択だ。きみの過去ならなおのこと、いろいろと話題には事欠かないだろうし。
ふっ、だろ。過去はどの地点に降り立ってもそこは墓地みたいに静かで、その静寂から流れてくる音には幾らか後悔のノイズがにじんでいる。ほら、レコード針から発生するあのシャリシャリみたいに。そのシャリシャリが、すっかりデジタルの透明な喧騒に慣れてしまった現在からワープして聴くと、宝石の塵が針に触れているみたいにキラキラと鳴る。
記憶の墓地にきらめくダイアモンドダストが奏でる静寂の音、サウンド・オブ・サイレンス。
やあ暗闇くん マイ・オールド・フレンド
またきみと話をしに来たよ
なぜって ちょっとひらめいたんだ 展望みたいな何かが
寝ている間に芽吹いたその種は
でも まだ 静寂の中だけど
あてもなく夢の道を ひとりで歩いて来た
冷たい石畳のひどく狭い道を
街灯の下 寒さに襟を立てて
目の前にネオンの光が飛び込んできた時
夜が切り裂かれ ぼくは風変わりな静けさに触れたんだ
Touched the sound of silence
その光の中には1万人か たぶんそれ以上の人々
みんな何かを話しているが会話はしていないようだ
みんな誰かに聴かせるわけでもない詩を書いている
そして どうかしてるよ 誰もその静寂を妨げない
もうやめてくれ! ぼくは叫んでいた
雑踏という静けさはウィルスみたいに感染するぞ
ぼくの話を聞くんだ 本当に大事なことを教えるから
ぼくの腕をつかんでくれ ほら手を伸ばすから
だけどぼくの声は雨粒みたいに静かに落ちてゆく
そして 音のない深い井戸の中でこだましている
人々は頭を垂れている お馴染みの祈りのポーズだ
彼らが創造した都会の「ネオンの神」に
すると光のお告げが降りてくる
ネオンの神は かく語りき
預言者の言葉は地下鉄の壁や安アパートの玄関ドアに落書きされている
グレースランドは今日も営業中 と
静寂の中で ささやくように とてもさりげなく
2月、無風、ビールと同等までよく冷えた空気。夜の庭でひとり、こんな楽しみ方もあるのです。
男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格はない。マーロウよ、いやさチャンドラーよ、なんと罪つくりな台詞を遺してくれたのだ。男にできるのはせいぜいタフを気取ること止まりだし、すべての男が有している生物的特性である優しさは、女が男に求める約三千ほどの諸条件のひとかけらにすぎない。しかもその順位ときたら、彼女に忠誠を誓って回転する犬の尻尾よりもはるかに下にある。つまり女は男の優しさよりも、安定的に供給される糧と果てしなく自由な時間と美しい庭を求めていて、包丁のような言葉と態度でその要求を突きつけてくるのだ。
・・・タフさとは、息継ぎなしでどこまで深く沈んで行けるかということなのだ、と、そう言いたかったのか。だとしたら、おお、やはりフリップ・マーロウはハードボイルドエッグ。そうか、そうなのかチャンドラー、そういうことだったのか。
そろそろ息が続かなくなってきたので犬たちが待つベッドへ行き、ビッグ・スリープ、大いなる眠りにつくことにする。今夜は娘のところのも来ているから4匹だ。4匹の温もりと寝息、悪くない。とにかく眠る。明日をビッグ・スマイルで迎え、タフを気取って、またひとつ、笑顔が溢れる魔法の庭を思い描くために。